リトガー・ブレグマン著『隷属なき道』を読み解く:8記事統合による全体像と核心|旧サイト記事集約移管シリーズ-2
GDPや経済学者を信じるな!?|リトガー・ブレグマン『隷属なき道』考察シリーズー5:「第5章 GDPの大いなる詐術」及び「第6章 ケインズが予測した週15時間労働の時代」から
この章では「第5章 GDPの大いなる詐術」と<「第6章 ケインズが予測した週15時間労働の時代」を取り上げます。

5-1 「第5章 GDPの大いなる詐術 」から
1.「第5章 GDPの大いなる詐術 」構成
第5章の構成は、以下のとおりです。
第5章 GDPの大いなる詐術
1)3.11後のラリー・サマーズの予測
2)「あなたに見えるものと見えないもの」
3)GDPが見逃している労働
4)1970年代から急伸した金融部門のシェア
5)80年前まで GDP は存在すらしなかった
6)収穫高に注目した重農主義者
7)究極の尺度にして水晶球
8)「国民総幸福量」は新たな尺度になり得るか
9)GPI ISEWも信用できない
10)効率の向上を拒否するサービス
11)「人間は時間を浪費することに秀でている」
12)人生を価値あるものにする計器盤
本書の中で、最も私が評価したい章が、この章です。
現在のベーシックインカム論において、その支給総額を考える時、インフレを懸念する議論が比較的重要になっています。
その総額が、GDPのどの程度の比率を占めるかが問題とされているのです。
私も、ベーシック・ペンションの支給額を考え、それがインフレを引きおこす、場合によってはハイパーインフレにも繋がりかねかい、という懸念を指摘されると、やはり種々躊躇してしまうのが本当のところです。
そうしたGDPを物差しに用いることが的確ではないことを、ブレグマンはこの章で提起・主張しているのです。
ある意味それはそれで、私にとっては嬉しいこと。
ではありますが、かといって、その尻馬?に乗って、「GDP、そんなの関係ねぇ~!」とは言えない辛さは、当然残ります。

では、まずブレグマンが「大いなる詐術」というGDPに関する主張を、上記の構成の中からいくつか用い、一部手を加えて紹介しましょう。
2.GDPが見逃している労働
国内総生産。
実のところ、それは何なのか。
答えは簡単だ。
「GDPは、一定期間内にある国が生産する付加価値(物とサービス)の総計で、季節的な変動、インフレーション、おそらくは購買力を補正したものである」
これに対してこう反論や反証を挙げています。
コミュニティ・サービス、きれいな空気、店でのおかわり自由、無償の家事、ウィキペデア。
その一部は、反対にGDPを下げる。
いくつかの国では、闇経済の見積もりをGDPに組み入れたら大きく上昇し、一夜にして経済が膨張した。
ボランティア活動から子育てや料理に至るまで、闇市場に組み込まれない無償の労働が、わたしたちの労働の半分以上を占めている。
その場合、外部労働に有償で依頼すると、GDPに加算される。
これらの無償労働をすべて加えると、37%(ハンガリー)から75%(イギリス)まで、経済は拡大するだろう。
その多くは、おそらく主に女性が担っている。
またGDPは知識の進歩を計算するのも下手で、コンピュータ、カメラ、携帯電話などの進歩はほとんど数字に表れず、一部は無償化もされており、情報部門がGDPに占める割合は、インターネットがまだ普及していなかった25年前から変わっていない。
3.1970年代から急伸した金融部門のシェア
GDPは多くの成果を無視する一方、人類のあらゆる苦しみから恩恵を受ける。
交通渋滞、薬物乱用、不倫は、ガソリンスタンド、リハビリ・センター、離婚弁護士にとってドル箱。
癌を患うギャンブル狂、離婚調停の長期化による抗うつ剤常用者、ブラック・フライデーでの買い物狂、環境汚染、犯罪もGDPには恩恵である。
またGDPには、格差や負債には無関心だ。
1950年代にGDPにほとんど貢献していなかった銀行業務は、その後貸付を増やし続け、証券や金融派生商品の増発等も加え、GDPにおける金融部門のシェアを大きく占めるようになった。
因みに、2010年前後の銀行融資残高の対GDP比は、ヨーロッパでは100%を超え、日本は75%超、米国でもほぼ50%であった。
そしてトービンをして1984年時点でこう言わしめている。
「我々は、優秀な若者を含む資源を、商品やサービスには関係のない金融活動にますます多く投じているようだ。そしてその金融活動は、社会的生産性の観点からは分不相応と言える、高額の報酬を個人に提供している」
4.80年前まで GDP は存在すらしなかった
GDPは社会福祉の正確な測定基準になるという考えは、わたしたちの時代に最も広がった神話の一つだ。
他のあらゆることで争う政治家でさえ、GDPは成長させるべきだという点では、意見が一致している。
彼らはこう考えている。
成長は良いことだ、それは雇用にとっても良いことだし、購買力にとっても良いことだ。
そして、政府により多く支出させるから、政府にとっても良いことだ、と。
現代のジャーナリズムはGDPがなければ成り立たない。
最近の国内成長を示すその数字を、ジャーナリズムは、政府の成績表のようなものとして扱っている。
(略)
わたしたちのGDPのへの執着を考えると、80年前までGDPが存在すらしなかったとは信じ難い。
いかがでしょうか。
この文を読むと、右も左も、ベーシックインカムの導入を主張する人々がその理由・背景・目的として述べている内容、そっくりそのまま、と思いませんか。
右も左も反緊縮を叫び、どちらも成長が必須としている原点は、GDPにあることになります。
もう盲目的と言える状態に、GDPはなってしまった。
否、わたしたち人間がしてしまったんですね。
今更取り返しはつきませんが。
5.効率の向上を拒否するサービス、との関係での「人間は時間を浪費することに秀でている」
効率性と生産性ばかり追っていると、教育と介護の真の価値が見えにくくなる。
多くの政治家と納税者が、コストしか見ようとしないのは、そのためだ。
(略)
公共部門のサービスが往々にして隠れた恩恵を多くもたらすのに対して、民間部門には、隠れたコストがいくらでも潜んでいる。
(略)
あなたはこれを、こうした外部生[見えないコストや恩恵]にはあまり多くの主観的仮定がからむので定量化は無理だとするかもしれないが、まさにそれが重要なポイントなのだ。
本来、「価値」や「生産性」を客観的な数字で表すことはできないのだ。
(略)
数字による統治は、もはや自分が何を求めているのかわからない国、ユートピアのビジョンを持たない国が最後にすがる手段なのだ。
気持ちは分かりますよ、ブレグマン!
しかし、ユートピアのビジョンが、GDPも他の数字もまったく不要、無用といいきれるものか、そのようなビジョンを、なるほど、と賛同を得ることが可能なものとして提示できるかどうか。
とりわけ、ブレグマン自身の提案において。
現状、私にはそう認めることはできていません。
ではこの章のまとめとして、最後のこの節から、ブレグマンの主張を引用して終わりにしましょう。
6.人生を価値あるものにする計器盤
GDPは深刻な危機の時代に考案され、1930年代には難問の答えを提供した。
今、失業、不況、気候変動という危機に直面している私たちもまた、新しい数字を探さなければならない。
必要なのは、人生を価値あるものにするものをたどるための数々の指標を備えた計器盤(ダッシュボード)だ。
まず、お金と成長。それに、社会奉仕、仕事、知識、社会的つながり。そしていうまでもなく、最も希少な「時間」だ。
(略)
わたしたちは行動を変える必要があるゆえに、導き手となる新たな数字が必要なのだ。
(略)
GDPの考案者であるクズネッツは、その算定に軍事、広告、金融部門の支出を含めることを戒めたが、彼の助言は聞き流された。
彼は、第二次世界大戦後「成長の量と質、コストとリターン、短期と長期の区分に留意し続けなければならない」、1962年には「さらなる成長を求める目標は、何のために、何の成長かを、はっきりさせるべきだ」とも述べているのだが。
今、わたしたちはこれらの古い問いかけについて再考しなければならない。
成長とは何か。進歩とはなにか。
より基本的には、人生を真に価値あるものにするのは何なのか、と。
まあ、率直なところ、ある意味美辞麗句を並べた感があります。
「価値」や「成長」「進歩」を追い求めることを当然とすることに、多少の疑問・違和感を私は持っているためでもあります。
やはり我田引水が強すぎるかという自覚はありますが、当サイトが提案する「ベーシック・ペンション」は、そうしたあるべき形の実現をひたすら求めることを目的とするモノ、コト、ではありません。
従い、GDPの在り方を変革すべきと思いますが、代わってどうすれば良いのかを提案することもできませんし、時間をかけてその課題に取り組みたいとも思いません。
願わくば、ブレグマンが望む役割は、あいも変わらずGDPがどうこうと、それを至上主義として考え、当然らしく論じている経済学者や経済評論家、アナリストには、ぜひ取り組んでもらいたい。
勝手ではありますが、また当然、誰も取り組むことはあるまい、と思っての戯れ言として書き加えておきました。

5-2 「第6章 ケインズが予測した週15時間労働の時代 」から
1.「第6章 ケインズが予測した週15時間労働の時代 」構成
第6章の構成は、以下のとおりです。
第6章 ケインズが予測した週15時間労働の時代
1)「21世紀最大の課題は余暇」
2)フランクリンやマルクスも予測した未来
3)フォードは初めて週5日労働を実施した
4)「機械を世話する種族」をアシモフは危惧した
5)テレビアニメに描かれた2062年の夫婦
6)誰も予想できなかった「女性の解放」
7)1年のうち半年が休暇だった中世フランス
8)ケロッグは1日6時間労働で成功を収めた
9)労働時間の短縮で解決しない問題があるだろうか
10)ストレスと失業率の高い今こそ準備のとき
11)どうすれば労働時間を減らせるか?
12)一生のうち9年をテレビに費やすアメリカ
まあ、この章は、学者と言えども本気で主張していたことが、「とんでも」のことだった、言うならば、生き恥を晒すような誤りだった、そんな事例を種々、ある意味揚げ足をとって紹介し、論じ、だからベーシックインカムの必要性、妥当性を主張・強調する、ということになるでしょうか。
これも、うがった見方をすれば、筆者自身、AIの影響を強調し、ベーシックインカムの必要性・必然性を主張することについても、それらの予想・主張がまったく的外れに終わったこととを重ね合わせて考える必要もあるのでは。
そう思ったりもするのです。
では、それらの外れた予測・主張の例に、BIが実現したときに予想されること加えて、本章から抽出してみます。
さほど大きな意味があることとは思いませんが。
2.多くのフリードマンなど経済学者や政治家が確信していた短時間労働社会、経営者が導入した時短、その現実
世界恐慌が勢いを増す1930年、英国経済学者ジョン・メイナード・ケインズは悲惨な状況下にもかかわらずこう予測した。
2030年までに、人類はかつて経験したことのない最大の難問に直面する。
それは膨大な余暇をどう扱うかである。
政治家が「破滅的な間違い」を犯さない限り、100年以内に西側諸国の生活水準は、1930年のそれの少なくとも40倍になるだろう。
その結果は?
2030年、人々の労働時間は、週にわずか15時間になっているはずだ。
こうした魅惑の余暇にあふれる社会を予測したのは、ケインズに限ることはない。
アメリカ合衆国の父ベンジャミン・フランクリン、カール・マルクス、ジョン・スチュアート・ミル、ジョージ・バーナード・ショーも。
実業社会では、1926年フォードが初めて週5日労働制を実施、1930年コンフレーク・メーカー、ケロッグが1日6時間労働制を導入、1933年には、米上院が週30時間労働導入のための法案を承認、1938年には週5日労働を保証する法律を可決し、リチャード・ニクソンは、そう遠くない未来に週4日労働で足りる日が来ると国民に約束した。
一方で、こうした予測に対して、退屈の蔓延で、深刻な精神的、情動的、社会学的影響が生じることなど懸念も語られたが、実業の世界での時短には成功が見られたこともあり、1970年頃の社会学者は「労働の終わり」が迫っていることに確信をもっていたとしています。
しかし、現実は、多くのバラツキはあるにしても、ケインズの週15時間労働は無論のこと、理想とした短時間で可能な社会の実現は果たされておらず、反対に長時間働かざるを得ない人々も増えている現状があります。
3.それでも労働時間短縮にこだわるブレグマン、その理由
それでもブレグマンは、労働時間の短縮が、ストレスを削減し、人生への満足感を高め、気候変動に効果があり、失業についてはワークシェアリングで対応可能になり、女性解放策も機能し始める可能性を強調します。
その理由が、世界の多くの人々が、労働時間が短くなること、余暇時間を多く持つことを望んでいるためといいます。
4.実現不可能と思われたことが実現する社会
どうすれば、労働時間を減らすことができるか。
まずは、仕事を減らすことを、政治の理念として復活させる。
そして政策としてお金を時間に換え、教育により投資し、退職制度をより柔軟にし、父親の育児休暇や子育てのためのシステムを整えていけば、徐々に労働時間を減らすことができるだろう。
それには、動機(インセンティブ)を逆転させ、種々の悪循環を断つべく、国が一丸となって行動しなければならない。
ユートピア論を掲げるブレグマンにしては、なんともインパクトに欠ける、普通の意見になってしまっているのが、奇妙に感じられるのですが、本章の最後の節< 一生のうち9年をテレビに費やすアメリカ >の最後の以下の記述も、そんなレベルの、少々気が抜ける話で終えています。
本物の余暇は、贅沢でもなければ堕落でもない。
それは、身体にビタミンCが欠かせないのと同様に、脳にとって欠かせないものだ。
(略)
21世紀の教育は、労働力となることを教えるだけでなく、(さらに重要なこととして)人生をいかに生きるかを教えなければならない。
「人間は、余暇に飽きることはないだろうから」、「受け身で空虚な娯楽に溺れるようなことにはならないだろう」(バーナード・ラッセル1932年の言)
わたしたちは、良い人生を導くことができる。十分な時間さえあれば。
まあ、これも教科書的、倫理的な示唆に富んだ発言で、ベーシックインカムがそのために必要というのには、少々気が引けるというものです。
それ以前に、まず、安心して生活することができる基盤としてのベーシックインカムであること。
その後は、人それぞれベーシックインカムの使い方と、その基盤に拠っての生き方の良し悪しは、なかなか基準を決めることは難しいはず。
加えて、教育の課題として「労働力となること」を教えるのではなく、「働くこと」「働くことの意味」、そして「働き方」を教えることが先行すべきであり、あくまでも「労働力」であることは、そのうちの選択肢の一つであるとすべきと考えます。
このように、ブレグマンの主張には、少しずつ微妙なズレが潜んでいることに注意しておくべきと考えています。
その最たる例え話が、ユートピア論としてのベーシックインカムが実現するであろうことを、<誰も予想できなかった「女性の解放」>のようにありうること、していることです。
次回は、「 第7章 優秀な人間が、銀行ではなく研究者を選べば 」と、「 AIとの競争には勝てない 」を取り上げます。

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